思考支配

 

>350826 上からの教育(学校)は、国家が与える宗教と同じで、支配体制を強化するために作られた。 >山田真寛          19/11/05 PM00 【印刷用へ】 

>学校は役に立たないだけでなく、特権階級が主導する支配体制(それは、古代の力による支配と地続き)を強化するための道具に過ぎないのではないか。

 

そうですね。わが国においては、序列秩序が支配体制になっています。

 

> 古代、乾燥→飢餓により私権闘争が始まり、勝者が敗者の生殺与奪を握る「支配体制」が始まった。>この時代の「支配」とはわかりやすい。>勝者のいうことを聞かねば生きていけない、支配である。

 

本当に分かりやすいですね。アニマルでもわかる。

 

>しかし、そのような状態は、抵抗も大きく勝者側にも負担が大きい。

 

そうですね。平和が生活の安定には必要ですね。

 

>それで、敗者にも私権(土地など)というアメを分け与えていくことで、戦争しないでも支配できる体制、身分序列の体制が作られた。

 

そうですね。下々は敗者の礼が必要ですね。

 

>集団秩序や規範への収束も働いているので事を分かりにくくしているが、あくまで勝者が甘い汁を吸う「体制」を強化している。

 

そうですね。下の者ほど割が悪いのが世の常ですからね。

 

>さらに、大衆からも支持を得るため次に利用されたアメが、下層階級のよりどころだった「宗教」である。>当初、国家は脅威を感じ弾圧していたが、その後国家宗教として取り込んでいる。

 

現人神は実物で、大衆に分かりやすいですね。

 

>ここでも、人々の求めるものを利用しつつ、支配者に都合のよい体制を磐石なものにいている。>農奴に心の平安は与えるが、吸い上げる対象のまま固定。)

 

日本人は、序列人間です。序列の中に自己を見つければ、それで心の安定を得られます。根無し草・非国民ではいけない。

 

>さて、学校教育が始まる1800年頃は、市場社会も深化し、産業革命を経て科学技術も進み、それらに対する期待から、キリスト教にかわる新しい認識や世界観を人々が一層求めていた時代である。

 

キリスト教は、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を説教します。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ (things as they are not) であります。現実のその内容は、日本人に違和感を与えます。

 

> 日本でも寺子屋に見られるように、江戸の市場社会が進展したのに対応して新しい認識が強く求められるていた時代である。

 

あるべき姿’ の内容や世界観は、非現実の内容であるから、無哲学・能天気の日本人には、難解なものであったでしょうね。

 

>そのような人々の欠乏を利用しつつ、支配体制を強化するために作られたのが、上からの教育(学校)である。

 

序列体制は、日本人の望むところでありました。現在でも、序列社会の外に出ると日本人は協力体制を作ることができません。移民は棄民であったようです。

 

>人々の期待に応えると見せつつも、実態は工業社会の歯車としてしたてることが大きな目的であった。

 

富国強兵の為には序列協力が必要でしたね。

 

>このように、武力支配→身分序列支配→宗教共認支配→学校共認支配、の流れの中で捉えると、上から教える教育(学校)というものの性格がよく分かる。

 

そうですね。勝負による序列→身分による序列→神々と下々により成り立つ宗教→試験成績により成り立つ序列、の流れの中でとらえると、日本人の序列メンタリティ (考え) が良く分かります。

 

>どの段階でも、人々の欠乏を利用しつつ、根本的なところでは、支配者の都合のいいように体制を強化するためにあったのではないか。>(現代のマスコミも同様である)。

 

日本人は、自己の序列の存在を知れば、それで安心します。日本人は、一人ではいられない。既成の序列の間に自己の名を差し挟むことにより安堵します。だから、個人主義がわが国では成り立ちません。

 

>しかも手口はどんどん巧妙になってきている。> 「支配」を古い見方から更新できず、マスコミ、学校による「支配」を見抜けないと、日本と言えども、じわじわとみんなの生活は苦しくなっていく。

 

そうですね。序列による不自由が見落とされていますね。

 

>(国全体でアメリカに貢物をさせられている。)

 

序列的見解によれば、アメリカは日本の ’あんにい’ (兄貴) にあたります。そう解釈して日本人は安心しています。もちろん、アメリカ人には、この解釈が通じていません。

 

>マスコミ、学校による思考支配からの脱却が焦点である。

 

そうですね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なしです。そこで、’人を見損なってはいけない’ という想いが生じます。序列観念は高じて強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’とお互いに励まし合って暮らしています。

 

 

 

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