学歴信仰

>日本の資本主義は、労働力の信用によって基礎付けられ、 労働力の信用は、学校制度への忠誠と信用として根拠付けられてきた。> 学校制度を支えたのは、学歴の価値に対する信仰であり、 学歴信仰を根拠付けたのが、受験制度である。

 

そうですね。日本人の序列信仰は、学歴という形式を通して達成されましたね。学歴を実現するためには、受験制度が欠かせません。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が十分でないと日常の日本語会話にも差支えが生じます。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができないと礼儀正しい日本人にもなれません。序列なきところに日本人の礼儀なし。そこで、人を見損なってはいけないという想いが生じます。序列観念は高じて、強迫観念の域に達していますから、日本人は、堅苦しい日常生活を送っています。’頑張って’、’ご苦労さん’ とお互いに励まし合って暮らしています。

 

>そして、受験制度が学生の価値を支配し、加えて日本人の価値観を深く支配してきた。

 

階称に基づく序列観念のために、日本人は序列の存在を知れば一も二も無くそれを肯定視し価値あるものと信じるように習慣づけられました。

 

>大学受験は落とすための試験である。

 

日本人の上下は勝負で決まります。分かりやすい。受験戦争は大切な勝負の機会です。手柄を立てるチャンスです。

 

> 誰もが大学を目指すようになると、試験を難しくして振るい落とすしかなくなる。

 

大学の数が足りなくなるのですね。

 

> 大学受験を繰り返すごとに、入試問題は奇妙に難解さを増していく。

 

序列争いは、激しくなるばかりですね。その価値に対する批判はありませんね。

 

>それに対応すべく、学校の勉強も、塾の補習も受験に照準を絞らざるを得なくなる。

 

そうですね。勉強も補修も受験 (序列争い) に照準を絞らざるを得ませんね。教育者にも批判精神はありませんね。

 

>そして、受験にしか役に立たない知識の習得が学校での役割となっていく。

 

序列社会における処世術の極みですね。

 

>かくして、家庭も学校も塾も大学受験に成功することが最大課題とばかりに収束していく。

 

序列社会における家庭・学校・塾の最大の関心事は受験に成功することですね。

 

>その結果、大学ランキング、合格率の高い高校ランキングなど序列ができてくるが、 卒業することに全く意味の無い大学は、当然のように実社会からは全く相手にされない。

 

序列争いの激しいところでは、大学のランキングが役に立ちます。

 

>全ては、受験制度という一点において、大きく狂っている。

 

受験制度は、人間序列を作る為にしか役立たない制度ですね。

 

> 受験制度によって作り出される学歴信仰も、空虚な幻想に過ぎない。

 

わが国は、日本語の階称に基づく序列社会で成り立っていますからね。それは幻想ではなく現実です。

 

> 空虚な受験制度に振り回される子ども達の悲鳴はとうに限界に達している。

 

それがどうした。(So what?)

日本人には、批判精神 (critical thinking) がない。

批判精神は、’あるべき姿’ (things as they should be) と ‘今ある姿’ (things as they are) の内容を比較することにより論じることが可能になります。

‘あるべき姿’ は、時制 (tense) のある文章内容として表現されます。ところが、日本語文法には時制というものがないので、あるべき姿は表現できない。つまり、あるべき姿は、日本人の想定外になっているのです。だから、日本人には、批判精神がない。’それがどうした’ の問いに答えが出ない。それで、我々日本人は ‘思慮のない人間’ であることが知られてしまう。自己主張ができない。いつも、控えめにしていなければならない。おとなしいばかりが良いわけではない。この辺で、我々日本人は、立ち上がる必要がある。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。英米人は日本語を話す時でも、日本語に起因する閉塞感に苦しむことはない。考え方はいくらでもあるからである。われわれも彼らに従って、考え方を増やさなくてはならない。さすれば、序列社会の難局を脱することができる。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

 

 

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