日本の宗教

(略)

>●日本の宗教についての偉人賢人たちの言葉

>・山本七平 「無神論を主張し火で燃やされたジョルダーノ・ブルーノは日本にはいなかった。日本人はずっと無宗教に対して寛容であった」

 

日本人は、無哲学・能天気である。無哲学・能天気の人々は、宗教哲学に対して寛容にならざるを得ないですね。だが、各人に哲学は必要です。Everyone needs a philosophy.  

 

>・芥川龍之介 「日本にいくら宗教を根付かせようとしても無理なのは、日本が古来から八百万の神を崇める、神道などに見られる独特の宗教観を持つからで、釈迦もイエス・キリストも日本にくれば神々の一人という扱いになる」 

 

日本人は、宗教が無くて困ったことは無い。日本人の魂は救済を必要としてない。だから、宗教はいくらあっても困らない。

 

>・村上春樹 「神は人々の心の中にのみ存在する。日本では、神は常に柔軟でどのようにでも捉えられる概念だった」

 

哲学は言語の内容であり、忖度は非言語である。日本人には、哲学がなくて忖度 (推察) がある。だから、宗教哲学とは無縁でいられる。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

 

>・加藤弘之 「宗教は恐怖に依存する概念だ」

 

そうですね。西洋人には意思がある。だから加害者意識にさいなまれる。罪の意識に苦しまなくてはならない。そのために贖罪の宗教 (キリスト教) が発達した。罪を知らない日本人に謝罪させようとしたら、それは自虐の強要になる。

 

>・福沢諭吉 「言うまでもなく、宗教は社会の平和と安全の維持という目的のために必要なものである。>しかし、私には宗教的な性質がまったくなく、宗教を信じたことはない。

 

福沢諭吉の宗教観は、野球に関するルールのようなものですね。それが無くては、野球はなり立たない。あくまでも便宜主義的なものですね。行為の規範を欠いていて軽薄な感じですね。

 

>他の人が宗教的であることを非難するつもりはないが、私自身の良心としては、自分が宗教を信仰するなどということは許さない」

 

福沢諭吉は、あくまでも御都合主義ですね。

 

>・二宮尊徳 「世の中に本当の真理はただ一つしかないが、その真理に近づく入り口はいくつもある。

 

真理の内容は人それぞれでしょうね。

 

>仏教、神道、あるいは仏教でも天台宗、浄土宗、浄土真宗禅宗などいろいろあるが、これらはいずれも一つの真理へ到達するための道に付いている沢山の入口の名前に過ぎない」

 

現実の内容はただ一つ。それよりも大きくも無ければ小さくもない。真理は非現実 (考え) の中に存在する。真理は個人によりその内容に違いがある。ご唱和の世界は完全にものとは限らない。

 

> 二宮尊徳さんが言うように「本当の真理はある」けれど、そこに近づくための方法は「どれでもいいやん」というのが日本人の価値観のようです。

 

無哲学・能天気は則ち日本人の自由ですね。日本人には、忖度 (推察) がある。その内容には誰も干渉できない。忖度は現実直視になっていないから、議論にならない。勝負無し。それで、歌詠みになる。’何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる’  (西行法師)

 

>これはほとんどの他の国の人たちには理解できない感覚であり、それはつまり、「無理に理解してもらう必要もない」ことなのだと思います。

 

そうですね。非言語は、理解を超えていますね。 無理な理解などありえない。‘東は東、西は西’ ですね。

 

>そして、これからも日本人は同じ信念の上を進んでいくと思いますし、それが日本人という存在としての最後の砦だと私は思っています。 

 

日本人は、無哲学・能天気である。無哲学・能天気の人には信念がない。同じ信念の上には信念がない。我らの無信念は最後の砦。’民 信無くば立たず’ (論語・顔淵)

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官).

 

 

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