日本的なもの

(略)

> もののあわれ国学

> 『日本とは何か』との答えとしての国学を誕生は、ひたすら『日本的なもの』を捜し求めた結果であるが、本居宣長が苦労して辿り着いた結論である『もののあわれ』などは、実は過去の日本に無かったし、もちろん現在にも無い。 > 多分将来の日本にも無いと予想される。

>それなら宣長の完成させた思想体系である『国学』の核心部分で日本精神の真髄的な『もののあわれ』は、矮小で歪な偏見の一種程度である。(戦前戦中において『国学』は天皇制と結びつくことで超国家主義の一翼を担った)

 

残念なことですね。気分・雰囲気に関する事柄は、学問 (哲学) にはなりませんね。

 

> 何故なら、そもそも日本の特徴とは、宣長が探し求めた純粋な『日本的なもの』の中には無くて、逆に外国由来の雑種的なものの中にこそ見つかるからなのです。 > 他と違う日本の最も際立った特徴とは『雑種文化』であり、外から入ったものを変質させ日本的に作り変えるところにあり、純粋な日本的なものには無い。 >今まで外から入ってきてその『本質』を日本的に変質しなかったものは何も無いのである。

 

そうですね。外来文化は日本的に変質されてわが国に吸収されていますね。

 

> 本来対立する性質である内と外とか個人と集団、経験と理論など論理上反対の性質のものが対立・闘争すること無く、並立・共存して仕舞っても、日本では何の問題も起こらない。

 

和を以て貴しとなす’ ですかね。無哲学・能天気であれば、お互いに考えの内容に違いのある事は気にならないでしょうね。日本人には理解が無くて忖度 (推察) がある。相互理解が無くて、相互忖度がある。

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

> 全ての外から入ってきた超越性は日本では通俗に変化し、深刻な根本的な対立点も曖昧になる。 > 日本では、全ての外国からの思想も文化も日本的に変容してしまうので中国伝来の儒教や仏教、西洋のキリスト教も日本では独自に変化して、最後には『日本化』して本来の超越性を失い相対化するのです。

 

そうですね。考えというものがなければ、深刻な根本的な対立点も気にならないでしょうね。それは、文章内容の ‘理解’ に精神を集中させることができないからです。

 

>それらの外から入ってきたものを『日本的で無い』との理由で排斥した本居宣長の『国学』が唯一見つけた外国由来でない『日本的なもの』はその性質上、矮小化、奇形化するしか道は無い。

 

日本人は対話ができないから、孤立化するしか方法がありませんね。

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

 

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

 

> 本居宣長の『国学』に『もののあわれ』しか内容的に残らなかった真相であるが、外国起源のものを全て除けば自動的に(仕方なしに)それしか残らないのは必然である。

> 所謂中世文学の代表例として方丈記徒然草をとるなら『もののあわれ』といい『無常』といい、いわゆる日本的な『もの』の典型が中世文学を特徴づけているように見えるが、これらの中には哲学が無く倫理的な感情の深さも無い。 >感受性の異常に鋭い思春期の少年文学の趣があるだけである。

 

そうですね。

 

(略)