教科書 4/4

 

>そして、彼等の多くが、教科書的な世界の中に埋没していくのである。 

 

それ以外の世界は不案内ですからね。

 

>試験をしなければならないから、試験をするために問題を作る。 

 

わが国は序列社会ですからね。試験は序列を定めるための大切な方策ですね。

 

>試験問題を作るためにカリキュラム、つまり、教えるべき事、を決めなければならない。 

 

正解が一つの問題を選ばなくてはなりませんね。現実は内容が一つですから容易ですね。考え (非現実) は人それぞれですから複雑で、問題としては適当ではありませんね。

 

>そして、そのために教科書が学課の中心になる。 

 

正解の暗記が学課の中心になりますね。学生による現実直視は必要ではありませんね。

 

>馬鹿げている。 >本末転倒である。 

 

そうですね。’手段の目的化’ が起こっていますね。これは、むなしい努力ですね。

 

>このことに疑問を感じないようでは、それだけで人を指導する資格はない。

 

そうですね。目的を見失った人は相手を指導する資格はありませんね。しかし、分かっちゃいるけどやめられない。  

 

>———————————-

>試験・受験問題の回答を書くためのテキストが教科書。 >受験が終ったら見向きもされないのは当然のことです。>また教科書は試験に役立つけど、それ以外のことには一切、何の役にも立たないということも明らかです。

 

そうですね。運転免許の試験を受けるために使用するテキストのようなものでしょうね。

 

 >私たちは学校で何を学んできたか、これからは何をどう学んでいくべきか。 

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

各人に哲学が必要です。Everyone needs a philosophy. 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。歴史・科学に関する考えは歴史哲学・科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学、などなど。我々日本人は、考える人にならなくてはならない。無哲学・能天気ではいられない。

全ての考えは文章になる。非現実 (考え) の内容を文章にするためには、時制というものが必要ですね。日本語には時制がないので、自らの考えを文章にすることが出ません。だから受け売りばかりをしている。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

しかし、英語には時制がある。だから、日本人は英米人から考え方を学ぶのが適当である。英米流の高等教育が最適です。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、言語に関する時制の重要性を深く理解する必要があります。さすれば我々は自己の意思を表すことが可能になり、自己の世界観をも示すことが可能になります。

意思を示す人間は自己の行動を理解され信用を得る可能性が増大します。自己の意思のある人間には方法があり目的達成の責任を持たせることも可能であります。自己の世界観を示せば ‘何を考えているのかわからない’ という相手の疑問も解消され信頼が得られます。

 

>教科書の正体を見極めたうえで、本来の学びを実現していかなければなりません。

 

そうですね。わが国の教科書は序列社会の人間序列を決めるための単なる手段として利用されていますね。わが国において教科書は処世術 (現実) の道具になっていますね。処世術は、学問 (非現実) とは関係がない。自己の持つ非現実の内容を基準にして、現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になれます。ただ事実のみをたれ流すマスコミとは違って、建設的な意見を唱えることになりますね。自己の意思と世界観を持った人間は、未来社会の建設に役立つ人物になることができます。 

 

 

 

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