事大主義 1/3 

 

>361113 日本習合論①  >匿名希望      20/10/20 AM00 【印刷用へ】 

>共感主義が蔓延している。 >このもっともらしい「共感」の空気の根底には、思考停止を「是」とする調教された意志が潜んでいる。

 

そうですね。  

 

>リンクより

>世を覆っている共感主義の基本にあるのは先ほど来僕が指摘している「多数派は正しい」という信憑です。 

 

個人主義がないのですから、個人判断以外を基準にとる必要がありますね。すると、共感主義になる。 共感は、個人の枠を脱していますね。  

>多数派に属していないということは「変なこと」を考えたり、しているからであって、それは多数派に合わせて矯正しなければならない。 

 

それは個人撲滅作戦ですね。   

 

>そういうふうに考える人がたくさんいる。 >若い人にも多く見かけます。 >でもね、そういうのを「事大主義」と言うのです。 

 

そうですね。’寄らば大樹の陰’・’長い物には巻かれろ’ ですね。  

 

>◆長いものには巻かれろ

> あるインタビューで「じだいしゅぎ」と言ったら文字起こし原稿には「時代主義」と書かれていました。 >なるほど、「時代の趨勢(すうせい)に逆らわない」から「時代主義」なのか。 >インタビュアーは若い人でした。 >熟語は知らないけれど、造語能力はあるなあと思いました。 

 

そうですね。新感覚ですね。  

 

>でも、「じだい主義」の「じだい」は時代じゃなくて事大です。 >「大(だい)に事(つか)える」。 >弱い者が強い者の言いなりになって身の安全を図ることです。 >「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同じ意味です。 >マジョリティというのは「大」「大樹」「長いもの」のことです。 >多数派の言うことはその正否を問わずにただ従う。 >それが身の安全である。 >それが当今の作法ですけれど、もちろん今に始まったことじゃありません。 >「事大」の出典は『孟子』ですから、それくらい昔からそういう生き方は存在していた。 

 

日本人も韓国人も事大主義ですね。中国人の政策は、それとは違うようですね。  

 

>◆事実や追求と無縁の和

>そういう生き方もたしかに一種のリアリズムではありますけれども、それにしてもマジョリティであるかマイノリティであるかは、それぞれが主張していることの真偽正否とは関係ありません。  

 

そうですね。  

 

>たしかに、「和を乱さない」ということは集団を安定的に維持するためには必要なことです。 >でも、ものには程度というものがある。 >日本の場合は、その度が過ぎます。 > 僕が「和」をあまり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。 

 

御法度の政治ですね。   

 

>自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。 >だから「和を尊ぶ」人たちは、基礎的なマナーとして「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方を知ろ」という定型句をうるさく口にするようになる。 

 

日本人は思考を停止していますから、現状と違った内容が出たら対応のしようもない。現実離れした内容は信じられない人たちばかりである。日本人は心底から現実肯定主義ですね。

 

>◆身の程

>こういう言葉は僕の子どもの頃まではよく使われました(僕もよくそう言って叱られました)。>でも、ある時期から言われなくなった。>1960年代からあとはほとんど耳にすることがなかった。>むしろ「身の程を知らず」「分をわきまえず」「身の丈を超える」生き方こそが奨励された。> 高度成長期というのはまさにそういう時代でした。 

 

あの時は日本人の気が大きくなりまたね。気分・雰囲気の問題ですね。     

 

>人々は「身のほどを知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。 >国に勢いがある時というのはそういうものです。 

 

かつての大日本帝国のようなものですかね。  

 

> 「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度まり込んだら、そこから出るな」というようなことを僕は若い時には誰からも言われたことがありません。 >たまにそれに類することを言う人がいても、鼻先でせせら笑って済ませることができた。 >だって、こちらは現に「身の程を知らないふるまい」をしていて、それでちゃんと飯を食っていたわけですから。 

 

それは現実肯定主義ですね。  

 

 

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