憂国の書 1/3

 

>太刀川省治 ( 57 建築士 ) 17/03/16 PM07 【印刷用へ】 >ウォルフレンが1994年に書いた日本憂国の書。 > 日本を支配しているのは誰か。

 

誰も日本を支配していないでしょうね。

 

>官僚、政治家、マスコミといった統合階級の支配の構図を指摘している。

 

我が国には階級社会は存在しないでしょうね。支配の意思 (will) は存在しない。だが、支配の恣意 (self-will) は存在する。

 

>すなわち官僚独裁国家日本の問題を指摘した本である。

 

わが国には、官僚といえども意思がない。

 

>2017年の現在、その指摘は色あせておらず、なぜ日本で改革が進まないのかがこの本を読むとよく解る。

 

そうですね。よくわかりますね。日本人には意思がない。

 

> 要約してくれているサイトがありました。 > 3章の「日本の問題点」を中心に転載しておきます。> 全国市民記者クラブ 佐藤秀則のブログ  2011年09月21日記事 >リンク >********************************

> 「人間を幸福にしない日本というシステム」のまとめ  > カレル ヴァン・ウォルフレン氏が書いた「人間を幸福にしない日本というシステム」を読みたいへん感銘を受けました。 

 

私も感銘を受けました。

 

>  現在、原発事故のために撒き散らされた放射性物質によって、健康被害が予測されますが、政治家や役人(官僚)は、その被害を抑えようとせず、東京電力(大企業)と自分達の既得権益を優先して守ろうとします。 > つまり国民の事を第一に考えていません。

 

そうですね。政治家が国民の代表であるという考えが政治家自身にもなく、国民にもないのでしょうね。これが政治音痴というものか。

 

>  こんな日本の政治の状況にとても役に立つと思ったので、この本の特に重要なところをまとめました。

 

無哲学・能天気の人達に、それは果たして役に立つものでしょうかね。

 

>  また、簡潔にまとめるために、意訳もあります。 >  この記事を読んで、少しでも興味を持った方は、ぜひ「人間を幸福にしない日本というシステム」を読んでください。 

 

そうですね。

 

> 1 日本の現状  >  日本は民主主義を実現していない。

 

我が国民は無哲学・能天気ですから、個人の考えの内容が独立していません。個人に自主独立の気風が無いので、民主主義は衆愚政治に変質しています。

 

>  日本人は幸福ではない人が多い。>そして「富める国の貧しい国民」という事態になっている。

 

そうですね。金が手段となっていない。金が目的となっている。だから、真の目的 (幸福) がない。

 

>それは日本の社会が根本的に歪んでいるからである。

 

そうですね。日本の社会は日本語により歪んでいますね。その根本は日本語ということになりますね。

 

>  明治政府は、国民を大多数の「普通の人々」と少数の「文化人」の2つのグループに分け、国民を支配しやすくした。

 

伝統的な上下思想の復活ですね。

 

>  そして、現在も人々を2つのグループに分ける伝統は続いていて、人々は政治的に無知に保たれている。

 

日本人は、上から下まで政治的に無知ですね。つまり、日本人は無哲学・能天気の民族として統一されています。者の上下はその中で起こる現象です。

日本語には、階称 (言葉遣い)というものがある。’上と見るか・したとみるか’ の世俗的な判断ができなければ、効果的な日本語は使えない。礼儀正しい日本人にもなれない。人間序列を作る為に受験競争が必要になっている。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) 

 

>  無能な経営者(官僚)が組織(日本)を率いていて、その構成員(国民)も無関心でいればその組織は潰れる。

 

そうですね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

>しかし、構成員が行動すれば組織には再起のチャンスがある。

 

理にかなった行動をすれば再起の機会は訪れますね。しかし、それは容易ではないでしょう。

 

 

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