佐伯啓思氏 2/2

 

>これは、単なる浅慮なのか、意図的な背信なのか、隠れた自己利益なのか、いずれにせよ、見苦しいだけではなく、それこそ時には「国益」を大きく損なう。

 

そうですね。日本人の考え方がなっていないのでしょうね。

 

>その結果、グローバルなコスト競争に身を投じられた日本はデフレに陥り、今も脱却できずにいる。

 

わが国のデフレ脱却への道は、創造力による競争でしょうね。

 

>もちろん、場合によれば米国からの要望が日本の国益にも適うことはあるだろう。>それらは何よりまず、日本の状況や事情に即して「われわれ」が定義すべきものであって、他国からいわれることではない。

 

そうですね。我々には自主・独立の考えが基本にあるべきですね。

>しかも、今日のようなパワーポリティックス(軍事力や経済力を背景に展開する権力政治)が支配的となった国際関係にあっては、これらの言葉も、往々にして自国の権益を追求し、他国に圧力をかける口実になるのである。

 

そうですね。トランプ氏が良い例ですね。

 

> 日米関係は、占領政策以来、政治的にも軍事的にも、そして何よりも精神的に決して対等ではない。

 

そうですね。一度だけの勝負で弁慶と牛若丸は生涯対等にはならなかった。わが国の ‘ものの上下’ は持続する。

>かつて江藤淳が述べていたように、米国からは、日本国内の状況があたかもガラス張りであるかのように眺められる。

 

無哲学・能天気な日本人の頭の中はガラス張りですね。頭の中に世界観がない。

 

>しかし、日本人はそれを知らずに自分たちで自由に論議し、決定しているかのように思わされている。

 

それは無哲学・能天気な人間が起こす錯覚のようなものですね。

 

>そうしてリモートコントロールにかかったように、日本国内の世論や議論が自発的に米国の要望に誘導されてゆくのである。>かくて「自発的従属」という構造ができあがってしまった。>そのような「自発的に誘導されていく様子」は近年、いっそう著しい。

 

自発的誘導は、目上の者に対する日本人の忖度 (推察) ですね。’おもてなしの心’ の表われでしょう。

 

>1990年代の構造改革では、もともと対日赤字の解消と経済再建を目指していた米国の要請(日米構造協議)は、「日本の経済構造は遅れている」、「世界標準になっていない」、「自由な市場競争という正義に適っていない」、さらには「構造改革は日本の消費者のためになる」という文句を並べ要求を迫るものだった。

 

考えかたには、色々ありますからね。たくさんの選択肢を机の上に並べて、我々もじっくりと考えて見ましょう。

 

>やがてその要求は日本の大新聞の主張となり、経済学者やジャーナリストも支持した。

 

日本人には批判精神 (critical thinking) がない。だから、学者やジャーナリストは単なる事実を垂れ流すことになる。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 

>そして彼らは「日本の経済構造はいまだに『戦時体制(40年体制)』である」と主張するようになった。>またTPP論議が始まったころ、「日本の開国」を求める論調が中心になった。 >そこには「閉鎖的で後進的な日本」を市場開放し、自国企業の参入をはかる米国の意図が背景にあった。

 

かつての黒船による砲艦外交のようなもですね。日本人は、いつもアメリカ人の聞き手にまわるしかない。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意志がない。自由とは意思の自由のことである。意思の無い人間とっては、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。

 

>日本のジャーナリズムは先導して「平成の開国」を唱え、「日経」や「読売」は当然として、「朝日」を含めた5大新聞はこぞってTPPに賛同した。

 

かつての ‘一億一心’ のようなものですね。ジャーナリズムは事実をそのまま垂れ流して、内容がどんぐりの背比べのようになっている。だから、わが国には有力紙が存在しない。

 

>各紙とも「アジアの活力を取り込め」、「自由貿易の流れに乗り遅れるな」と訴えたのである。

 

戦争の始まりのようなものですね。盲目の判断はいつの時代にも危険ですね。

 

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>転載終わり 

 

 

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