自然を知らない 2/2

 

 

>そんな、民族としての誇るべき感性を――おそらくは文化的な土台があって――有する国民として、いま憂慮すべきことがあるとすれば、過剰なまでの「海外(殊にアメリカ)のモノマネ」が、現代日本のあらゆる文化圏を席巻してしまっているという実情ではないだろうか。 

 

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民は、模倣は特技ですからね。それに比して創造は苦手ですね。  

 

>「情緒」を否定し、駆逐するような勢いで、「合理性」や「論理」が幅を利かせてゆく。

 

我々は、気分・雰囲気に酔ってばかりはいられませんからね。

政治的な取り決めや社会的な習慣は、もともと自然や祖先崇拝を基調にして矛盾やあいまいさを許容する宗教である神道が司ってきた。この日本固有の宗教――( 略 )――には、哲学的あるいは道徳的な教理の展開がまった くない。 (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

> 古今東西の文化的影響の上に、こんにちの日本の文化があるということは充分に理解してはいる。 >けれどそれは、海外発信のなにもかもをかつての日本人が無批判に受け入れた結果と捉えるべきではない。 >「自然」という概念を長い間もたなかった日本人特有の精神性と、「もののあわれ」と呼ばれるような柔らかな情緒が、すべての日本人の内面にしっかりと根付いていた、そのことが前提にあったということを忘れてはならないはずだ。 

 

日本人は、手つかずの自然を愛ずる習慣がありませんね。今でも整えられた人工の自然を愛している。盆栽・箱庭・一坪庭園などなど。だから、自然観察など現実直視の作業には適していないですね。 

 

> 「自然」という概念を知らなかった頃の日本人の無垢な感性を取り戻す勇気――それはグローバリズムの波に抗う勇気ともいえるだろう――の担い手として、これからの日本文学は書かれるべきだと私は思う。 

 

日本人は感性を理性の前に置く’なあなあ主義’ ですね。‘なあなあ主義’とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることです。  

日本人は、理詰めの議論が出来ない。これでは困る。  

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。その考えの展開には際限がない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制 (tense) がない。だから、日本人には世界観 (world view) がない。そして、日本人には批判精神 (critical thinking) がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、社会全体に個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。世界観に共鳴する協力者が得られない。人類社会に貢献する度合いが限られる。 

 

>その勇気を植え付けるようにして丹念に書き込まれた言葉の一つひとつは、理屈を超えた「もののあわれ」として、現代の人びとの心に訴えかけると期待をこめて。 

 

我々も理性的な人間になりましょう。感性至上主義の人間では ‘生きる力’ (vitality) に欠けています。

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。その考えの展開には際限がない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制 (tense) がない。だから、日本人には世界観 (world view) がない。そして、日本人には批判精神 (critical thinking) がない。マスコミも現実の内容を垂れ流すから、社会全体に個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。世界観に共感する協力者が得られない。人類社会に貢献する度合いが限られる。家畜・社畜の程度に限られている。 

 

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