高踏主義 

 

>32528 高見に立つ、その姿勢に断が下される。 >北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) 02/06/01 PM11 【印刷用へ】 

>昔「高踏主義」を標榜する知識人の一群がいた。>巷=俗世の欲望の渦巻きから身を引いて観念的探索(感応観念を紡ぐ)に埋没する人々である。

 

我利我利亡者の世界からの脱出ですね。   

 

>しかしそれは彼らのみならず、知識人一般に広く見られ、かつそれが知識人のあり方として正しい、とされていた。  

 

我利我利では世間の反感を買うことも多いですからね。   

 

>そして一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。

 

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。

 

>社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。  

 

教え込まれた徳目を基準にして世の中を監視するのですね。  

 

>それらによって、社会に対して観察者=傍観者であることがいわば正当化されていた。

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容を垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。    

 

>それどころか、それが一歩高みに身を置いた高尚な姿勢であるかのようにもてはやされていた時代であった。

 

高尚な姿勢は、無能の姿勢でしょうね。  

 

>しかし、この間の四方氏の投稿を初めとするこの掲示板の流れは、それらの姿勢が根本的誤りであり、過去の遺物でしかないものであることを明らかにしつつある。> 傍観者であることが一定の正統性を持っていたかのように思われたのは、現実とは私権闘争の場であり、およそ社会を考えるものや、公的な立場に携わるものは、その私権闘争や私権対立から一歩外に身を置くという仮装が必要であったからであろう。>(ただし現実には、傍観者はせいぜい現状を追認することしか出来ない。)

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には ‘他力本願・神頼み’ となる。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>しかし現在、私権闘争は衰弱し、現実は既に同類圧力にその姿を変えつつある。>しかもその圧力源=活力源は「あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。」(四方氏 31505

> >しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。 

 

無哲学・能天気ではいられませんね。’考える人’ (the thinking man) になりましょう。  

 

>>つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。>>もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355

>これらのことは次のことを意味する。>即ち人々の意識の坩堝の中に身を置き、自ら生きる場を形成していく現実的な基盤が既に生まれているということ。>そしてその中で傍観者とは、旧いスタンスで頭を染め上げられたまま人々の期待を遮断した人であり、つまりは現実からは無用・無縁の人であることを。>かつての知識人のスタンスを真似た、人々の一億総評論家化。

 

一億総歌詠みでしょね。  

 

>そして現在なお数多く見られる「何事も先ず疑ってかかる」認識スタンス。 

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。

 

>かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。 

 

 

 

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