今も昔も変わっていない

 

>国家の支配構造と私権原理 

>300469 中国において「いわゆる○○主義というものは中国にはない」 >匿名希望 ( 40代 会社員 ) 15/01/22 PM08 【印刷用へ】 

>今から77年も前に出版された著者からの引用です。> 支那人(リンク)の性質が今も昔も変わっていない様子が伺えますが、それには「いわゆる○○主義というものは中国にはない」という内容にあると思われます。

 

そうですね。中国には、〇〇主義はないですね。あれば、それは日本からの借り物でしょう。日本人は、漢字を使って外国語を翻訳していますからね。しかし、この方法では本場の中国人には心底伝わってはいない。それは、文法の問題があるからです。  

漢民族 (中国人) は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、中国人は外国人に対して自己の内容を発信することはできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。漢文で書かれた書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

 

>その理由は良くわかりませんが、中国人の意識の中に他人を信用出来ない理由として「自分が相手の立場に立ったら自分を信用できないと思っているからである」というところにヒントがありそうです。

 

中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国である。覇者の物語は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。要するに覇権が頼りです。信用は頼むに足らずですね。

 

東夷 (とうい) [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     

南蛮 (なんばん) [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 

西戎 (せいじゅう) [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。・

北てき (ほくてき) [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

中華 (ちゅうか) [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]  

 

> 「ぼやきくっくり」(リンク)さんからの引用です。

>------------------------------------------------------------------------

>(以下、抜粋引用)

> 【改革・進歩は幻】

>  〈中国に〉進歩を期待する者は、まだまだ「素人」である。

 

そうですね。初学者は、まず中華思想の勉強から始めなければなりませんね。 

 

>慈善事業家が、さも明るい未来があるかのように寄付を呼びかけ、討論会を開いている。

 

中国人には、過去も現在も未来もありませんね。これらの世界の全て非現実の内容ですから。中国人にあるものは現実ばかりです。   

 

>確かに中国の「進歩」関連記事は紙上を賑わしている。>国民党の出す公衆衛生、法の施行、刑務所の改善、国民の教育、農業改良などの政府刊行物だけを読んだら、簡単に騙される。

 

総花的ですね。西洋並ですね。現実しか知らない人間の建前 (言い訳・口実・言い逃れ) ですね。

 

>さて、そのうちどれだけのものが実践されているか。>要するに、これは海外向けの宣伝なのである。

 

中国の現実を知らない外国人のいることを彼らは知っているので、中国人はそれに対応しているのですね。

 

>現に、中国人は現実が分かっているから、白けたものである。

 

中国人は現実が分かっている。しかし、非現実 (考え) がわかっていない。だから、’来るべき世界’ (非現実) の内容を聞いても心を動かすことは無い。中国語の文法には時制 (tense) というものがないので、過去・現在・未来の非現実の世界の内容を脳裏に収めることができない。要するに、世界観を持たないのである。来るべき世界の内容に胸を膨らませることもない。だから、ありがたい説法もカエルの面に小便となる。  

 

>お人好しで、物を深く考えない外国人を欺くプロパガンダなのだ。 

 

東は東、西は西’ ですね。文法の違いは驚異的ですね。     

 

>多くの「物書き」はすっかり騙されているのである。

 

そうですね。しかし、物書きは騙された証拠を後世に書き残すことができますね。これは、貴重な功績ですね。  

 

(略)

>------------------------------------------------------------------------

>※引用書籍:ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」 

 

 

 

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任命拒否問題

 

>トップ >ニュース一覧 >記事

>「news23」星浩氏、学術会議の任命拒否問題で稲田朋美氏が「説明は必要」との発言に「自民党議員も…説明しないとダメという人が多い」

>2020年10月15日 7時26分スポーツ報知 ># 社会 >TBS >TBS

> 14日放送のTBS系「news23」(月~木曜・後11時、金曜・後11時半)で、日本学術会議が推薦した新会員候補6人の任命を菅義偉首相が拒否した問題を報じた。

> 番組では、自民党が14日に日本学術会議の在り方を検討するプロジェクトチーム(PT)の初会合を開き、年内をめどに政府への提言を取りまとめることを申し合わせたことを報じた。 >これに対して野党は任命拒否問題から批判の矛先をそらすのが狙いだと反発している。

 

拒否問題とあり方の問題は、別の問題ですね。批判の矛先をそらすとは、穿った見方かな。  

 

> 一方で自民党稲田朋美元防衛相が14日、東京都内で記者会見し、日本学術会議の会員候補6人を菅義偉首相が任命拒否したことについて、「こういう判断基準で任命しなかったという説明は必要」と指摘したことを伝えた。

 

そうですね。説明をしないと菅義偉首相の意思決定 (理性判断) ではなく、恣意決定 (盲目の判断) であると間違って解釈されかねませんからね。恣意決定の結果であれば、もちろんリーズン (理性・理由・適当) などはありませんから説明責任は果たせませんが、、、、。恣意はばらばらな単語のままで存在し文章にならないから、理路整然とした論述にはなりませんね。   

 

> スタジオでアンカーの星浩氏は稲田氏の発言を受け「自民党の議員も個々に話しますと、任命拒否の理由は説明しないとダメだねという人が多いんですけど党内の議論としてはあまり広がらないのが現状だと思います」と指摘した。

 

自民党議員の沈黙は菅義偉首相に対する忖度 (推察) が働いているからでしょうかね。

非現実 (考え) は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。    

 

> その上で「今回の問題の核心は、政治権力が人事権をどういうふうに行使するかどうか。

 

政府は人事権を使って人権を擁護してもらいたいものですね。   

 

>それから学問の自由とどういう関係があるのかという問題なんです。

 

政府は言論の自由を擁護してもらいたいものですね。  

 

>予算とか組織はどんどん見直せばいいと思うんですけど民主主義の根幹の問題は一番重視して議論してもらいたい」と解説していた。 

 

我々日本人は ‘考える人’ (the thinking man) になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. いつまでも、無哲学・能天気ではいられませんね。  

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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自分の頭で考える 2/2

 

> 「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。>人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。 

 

そうですね。日本人には現実しかない。だから、’来るべき世界’ (非現実・考え) の内容を持ち出しても乗っては来ませんね。日本人は、現実離れのした話は信じられないのです。

 

>実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。 

 

現実肯定主義者には重宝な言い訳となっていますね。   

 

>  こういうのは時代の「空気」を映し出しているんです。>どういう「空気」かというと、「自分に割り振られたポジションにいて、そこから出るな」という圧力です。 >その圧力が大気圧のように日常化している。

 

そうですね。それは民の身分を固定する方法ですね。ノータリン (脳足りん) の一つ覚えですね。   

 

>日常化しているので、圧力がかかっているということ自体が実感されない。  

 

昔から ‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。   

 

>  共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。

 

日本人は議論が下手ですからね。議論に親しみを感じていない。喧嘩する為には議論が必要であるのか、それとも議論をすると喧嘩になるのか。  

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)  

 

>異論を許さず、逸脱を許さない。>みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。>でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。

 

そうですね。個人主義がないですね。考えの内容は個人個人で違っているという意識がない。     

 

>そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。 

 

そうですね。定められた蛸壺の中に入って死ぬまで銃を撃ち続ける皇軍兵士のようなものですね。   

 

> 「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。>でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。 

 

そうですね。彼らには考えることに慣れていない。だから、面倒なのでしょうね。   

 

>今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。 >求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。 

 

そうですね。アニマルの飼育方法と同じですね。      

 

>その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。>自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

そうですね。なれ合いですね。なあなあ主義ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>  共感なんか、なくてもいいじゃないですか。>そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。  

 

そうですね。自己の気分・雰囲気・感情に囚われて我々の共通の目的を見失ってしまいますね。   

 

>きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。>何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる。

 

そうですね。民主政治 (多数決原理) も意味を持つようになりますね。  

 

>その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。 

 

わが国を覆う時代閉塞の感覚を払拭できますね。   

 

>でも、そのことをアナウンスする人が少ない。 

 

そうですね。一緒にアナウンスする人を増やしましょうね。  

 

 

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自分の頭で考える 1/2

 

>361047 勉強圧力→順応回路からの脱却は、自分の頭で考えることが突破口 >匿名希望  20/10/17 PM05

>「おのれの分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という言葉は私権時代の尺度で使われるもの。

 

分際・身の程’ 身分制度に基づく発想ですね。   

 

> 「分際」も「身の程」も私権時代の序列を残したもの。

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列判断 (上下判断) 無くしては、日本語の日常会話にも差し支えが出るほどである。  

 

> 勉強圧力もこの私権時代の序列におびえているから、いまだ残り続けている。

 

序列メンタリティ (考え方) は立身出世の励みになりますね。

 

> 勉強圧力→順応回路からの脱却は、自分の頭で考えることが突破口 >リンク より引用   

 

我々日本人は ‘考える人’ (the thinking man) になる必要がありますね。   

 

> (前略)

>でも、この「おのれの分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という恫喝は最近ほんとうによく聞くようになりました。 > 小田嶋隆さんが前にツイッター財務大臣について批判的に言及したら、「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」という驚嘆すべきリプライがついていたことがありました。

 

財務大臣は ‘お山の大将’ のようですね。   

 

>でも、こういう言い方は、たしかに近頃ほんとうによく目にします。> 僕が政治的なことについて発言した時にも「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。

 

理屈には大人も子供もありませんね。身分の状態を話題に持ち出すのは理屈に興味の無い証拠ですね。   

 

>僕の知り合いが、ある有名ユ―チューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われた。>ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われた。

 

日本人の序列感覚はいつまでたっても抜けませんね。日本語使用による副作用でしょうね。     

 

>  全部パターンが同じなんです。 

 

そうですね。日本人の序列メンタリティ (考え方) は日本語により少しも揺るぎませんね。  

 

>批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。 >だから、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる。 >それはいくらなんでも没論理的ではないですか。

 

そうですね。日本人には理論というものが難しすぎますからね。ですから、わが国では学問 (哲学) が栄えません。  

 

> 「現状に不満」というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。 >無力な人間には、そもそも「現状に不満である」と言う権利がない。 >こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう「現状を変える」ことは永遠に不可能になります。

 

そうですね。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)    

 

>だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです。 >勝ち残ることができなくて、途中で脱落すればもちろん現状は変えられない。 >勝ち残ってしまったら、「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。>グルーチョ・マルクスのように「自分を入会させるようなクラブには入会したくない」ということが言えるのはごく例外的な人だけです。>ふつうの人は「自分が偉くなれる仕組みはよい仕組みである」と考える。

 

そうですね。   

 

 

 

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超低学歴 8/8 

 

>つまり、物事を一般化、抽象化して普遍の原理原則から演繹する思考法が、訓練されてないと、変化に対応できません。 

 

私は ‘哲学とは何ですか’ と何度となく日本人のインテリから質問を受けた。哲学とは ‘考え’ (非現実) のことである。

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する哲学は人生哲学になる。などなど。

だが、外国人からはこのような質問を受けたことはなかった。日本人は大学に在籍しても自己の哲学を作っていないに違いない。日本人には現実の内容はあっても、非現実の内容は無い。だが、各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. そうでなければ、民主政治は衆愚政治に変質します。

 

>だからこそ、高い学歴が価値を持つのです。

 

そうですね。英米流の高等教育は価値がありますね。自己の哲学 (非現実・考え) の作り方を教えるからです。  

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。論文を著わせば学士・修士・博士となることができる。だが、無哲学・能天気の人々には残念ながらそれらの称号を受け入れる余地がない。      

 

>18歳の時に答えを丸暗記して対応できる試験に合格した、そのアプローチだけでは通用しなくなっている。>高校までは、それでいいんです。>日本は、そこまではむしろ教育がうまく機能している。>問題は、大学からです。

 

そうですね。日本人は思考を停止しているので卒業生はそれまでに暗記したことの受け売りをする。 ‘受け売り専門の人’ となるしかない。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

>一般原理原則から、新しく発生したできごとを演繹して考える。 >あるいは、いろいろな物事を組み合わせて創造する。>そういう思考訓練をきちんとできないといけない。 >いま危ないと思うのは、そういう思考力を評価する仕組みが日本社会全体にないことです。

 

そうですね。日本のような思考停止の社会では、思考力の評価はできないでしょうね。当分英米人に頼むしかないでしょうね。

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民には、現実があって非現実がない。現実を内容とする文章はあるが、非現実を内容とする文章構文が存在しない。

だから、技術 (実学) があって、哲学 (考え) がない。考えの内容は人様ざまであるので個性的になるのだが、特亜三国人においては個性を伸ばす英米流の高等教育が言語的に成り立たない。

現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。

非現実 (考え) の内容を現実の中で実現すれば、それは創造したことになる。

特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。模倣は比較的容易である為に競争には参入者が多いが、創造の競争には少ない。

模倣の競争は没個性の競争でありとかく過酷なものになりがちである。アニマル風の競争になる。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

(略)

 

 

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超低学歴 7/8 

 

>国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち   

 

日本の常識は世界の非常識ですね。

 

>冨山 有名企業の経営者など経済界の人たちが集まる宴会で、大学時代の話になると、みな不思議なくらい自分がいかに勉強をしなかったかという自慢話になるわけです(笑)。>俺は大学に行かずに麻雀ばかりやっていかとか、運動しかしていなかったとか、みな滔々と語るわけです。>それでいて「最近の若い連中は、勉強していない」とか上から目線で言うから意味不明です(笑)。>ただ、そういう人材育成モデルがある段階まで機能して、実際に有名企業の経営陣まで登れたので成功モデルになってしまったのでしょうね。 >残念ながら、日本社会の構造がこうした変化に対応できない経営者を生み出したといえるでしょう。 

 

縦社会の構造がわが国の閉塞の原因でしょうね。   

 

>なので、日本の政治家も官僚も経済人も、国際的にみると驚くほど低学歴になったしまったわけです。 

 

わが国の大学の国際的ランクの低さは、わが国の政治家の能力の低さと関係づけられているのでしょうか。

 

>小野 学力のピークが有名大学に合格した18歳というような人たちが、日本の政治や経済をリードしているわけですね(笑)。 

 

そうですね。アメリカ人もそのように見ているようですね。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)  

 

>冨山 いろんな組み換えや変化が起きる時、大事なことはものごとの中で何が一般、普遍的原理原則を持つか、何が普遍性を持たないかを区別することなのです。 

 

日本人には現実があって、非現実がない。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

 

>これがちゃんと自分の頭の中で整理できないと、急激な変化に対応できません。>つまり、自分が積み上げてきた個別的な体験だけで経営のかじ取りをしようとすると失敗します。 

 

そうですね。あるべき姿に基づく批判精神が必要ですね。  

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)  

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>少なくとも自分の経験の中で、普遍的に通用するものと通用しないものぐらいは仕分けできないと経営者失格です。  

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>飛行機の性能にたとえれば、早く飛びたいのか、それともクルクルと回るのがいいのか。>それともパイロットの命を守ることが最優先なのか。>それを判断できないといけません。 

 

そうですね。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はないのか。

人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。

 

 

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超低学歴 6/8 

 

>413()『よこどり 小説メガバンク人事抗争』発売 著者:小野一起

>日本企業で出世する人たち、じつは「超低学歴」ばかりになっていた…! >世界に「逆行」するおかしな人事が横行   

 

日本の常識は世界の非常識ですね。

 

>早慶卒、体育会系出身が「最強」という現実

>小野 日本企業で求められるのは潜在力を担保する有名大学の合格歴になるわけです。>余計な知的な能力は必要ない。 

 

見栄と外聞が必要ですね。   

 

>ムラの中で必要な知識や掟は、ムラに入ってから叩き込んでやるというわけです()。 

 

序列修行に必要なことですね。序列社会ではたたき上げが必要ですね。   

 

>だから今のムラから別のムラに移る転職も難しく、会社が傾くと総玉砕に向かってしまうのではないでしょうか。 

 

そうですね。人間序列は縦の構造ですからね。人間序列は縦割りの弊害そのものですね。昔の陸軍省海軍省のようなものか。省益あって国益なしの争いか。      

 

>冨山 そうですね。この話は結局、全部つながっていますよ。 

 

そうですね。日本語の階称 (言葉遣い) の弊害でつながっていますね。   

 

>産業の構造が比較的固定的で、オペレーションの優劣で業績の優劣が決まる時はそれで良かった。 

 

家元制度が幅を利かせていましたね。   

 

>極論を言えば、一つの工場の中で、ずっとその仕事のオペレーションを高度化して合理化していくことが企業全体の競争力に直結していたわけです。>一本のネジの完成度を高め、作業工程を一つずつ見直して合理化することが大切だったのです。>ただ、いまは産業構造がガラガラ変わる、競争構造もガラガラ変わる。 

 

経営者の発想の転換 (paradigm shift) が必要ですね。

 

>要するに産業や社会がダイナミックに変化するようになればなるほど、特定の業務の中で作られるノウハウはすぐ陳腐化するのです。 

 

そうですね。ノウハウは発想の転換により疾く陳腐化しますね。日本はなぜ敗れるかを考えないといけませんね。         

 

>日本の歴史を振り返ると、様々な組織の中で似たようなことが起こりやすい。>たとえば軍です。>日本の軍隊というのは非常にスペシャリスト化、専門家していますが、わりと初期の段階ではみなジェネラリストで、何でも屋さんだったんです。>まだ明治維新の名残があった明治期は特にそうでした。>それが、どんどん機能特化していき、機能特化で技能を磨いていく人たちがそのまま偉くなっちゃう。>そういう仕組みを日本人は作りやすい。 

 

同次元序列の競争ですね。機能特化を種にして閉鎖的な序列を作るのですね。  

 

>大学ということでいえば、典型的に就職に強かったのは体育会でしょ。>早稲田、慶応に入れるだけの能力がありました。>その上、「ラグビー部です」「野球部です」と言えば、日本的経営の企業であればどこでも内定がもらえるわけです。>要するに地頭いい、体力がある、これが要件。>それに加えて、上下の秩序にちゃんと従って行動できる。

 

礼儀正しい日本人ですね。   

 

>最高じゃないですか。>オペレーショナルな業務を磨く、ムラ社会の一員としては……ということになるわけです。 

 

わが国の環境は整っていますね。

 

>小野 有名大学の体育会系の人材は、終身雇用、年功序列ムラ社会に、もっとも都合の良い人材と認められるわけですね。

>冨山 そういう人材の良さをすべて否定するわけではありませんが、そういう人材だけで構成されている組織は極めて脆いですよ。   

 

そうですね。 個人主義がない。だから、日本の社会は個人の力を引き出すことができない。  

 

>ちょうど平成に入ったころに、ベルリンの壁が壊れ、完全なグローバルな世界に突入しました。

>インターネットの普及で、デジタル革命も始まって、産業の変化のスピードが爆発的に変化した。

>オペレーショナルな業務を磨くだけのムラ社会型の会社では、変化に対応できなくなったのです。

 

そうですね。発想の転換が必要ですね。だが、日本語使用ではそれが難しい。それは文法上の時制 (tense) の作り出す世界観 (world view) がないからである。 

 

 

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