江藤淳 2/3

 

>しかし、米占領軍は、1945年9月27日付けの「新聞と言論の自由に関する新措置」(scapin-66)で、従来の日本の法「新聞紙法」などの言論の自由を制限してきた法律の即時停止を命じた。>同時に、この「新聞と言論の自由に関する新措置」(scapin-66)で、米占領軍は、連合国最高司令官の名のもとに、新しい「発禁・検閲」を開始を宣言したのである。

 

彼らは、時局に対処したのでしょうね。宣言の美辞麗句だけでは現実は動きませんからね。

 

> 以後、日本の新聞をはじめとするマスコミは、日本政府の管理下から米占領軍の管理下、つまり米占領軍の検閲を受けることになったのである。>しかし米占領軍による検閲の存在と現実は、一部のマスコミ関係者しか知りえないように秘匿された。 

 

そうですね。  

 

>日本の新聞、マスコミが決してその「米占領軍による検閲」には触れようともせず、一種のタブーとなったからである。 

 

まだ日本は、米占領軍の検閲が必要な状態にあったのですね。日本人の頭のスイッチはそれほど早くは切り替わらないでしょうからね。

 

> 戦前、戦中の「出版法」「新聞紙法」「言論集会結社等臨時取締法」などによる検閲は、いずれも法律によって明示されていた検閲であり、非検閲者も国民もともに検閲者が誰であるかをよく知っていた。>タブーに触れないことを意図していたのである。

 

わが国の民主主義の敵は、責任者として戦後も罰せられることはなかったですね。

 

>しかし、アメリカの検閲は、隠されて検閲が実施されているというタブーに、マスコミを共犯関係として誘い込むことで、アメリカの意思を広めることを意図していた。>(江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫より)  >検閲者・米占領軍と被検閲者・日本のマスコミ関係者との共犯関係・・・。

 

日本人は御都合主義ですからね。無哲学・能天気ですから自分自身の ‘あるべき姿’ の内容を堅持していない ‘つかみどころのない人間たち’ ですね。だから、米占領軍と日本のマスコミは一致協力して民主主義の樹立に努力できたのですね。

 

>江藤淳は、検閲の史実を論証しただけではなく、さらに検閲者と被検閲者たちの心理構造、そして深層心理まで抉り出している。>ここで看過することができないのは、このように検閲の秘匿を強制され、納本の延期について釈明しているうちに、検閲者と被検閲者とのあいだにおのずから形成されるにいたったと思われる一種の共犯関係である。

 

日本人は、’なあなあ主義’ によるものでしょうね。検閲者の方から譲る条件は何もない。’なあなあ主義’ とはなれ合いで事をすませること。、

 

>/被検閲者である新聞・出版関係者にとっては、検閲官はCCDかCI&Eか、その正体もさだかではない闇のなかの存在にほかならない。>しかし、新聞の発行をつづけ、出版活動をつづけるというほかならぬそのことによって、被検閲者は好むと好まざるとにかかわらず必然的に検閲者に接触せざるを得ない。>そして、被検閲者は、検閲者に接触した瞬間に検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうのである。/

 

事の次第を語っていれば全てを説明できますね。発言には自己主張というものが見られませんね。

 

>これは、いうまでもなく、検閲者と被検閲者のあいだにあるタブーの共有である。>この両者の立場は、他のあらゆる点で対立している。

 

個々の対立関係を乗り越えて両者は協力関係に入ったのでしょう。

 

>戦勝国と敗戦国民、占領者と被占領者、米国人と日本人、検閲官とジャーナリストだが、それにもかかわらずこの表の世界の対立者は、影と闇の世界では一点で堅く手を握り合わせている。

 

‘力は正義’ ですね。Might is right. ‘寄らば大樹の陰’ ですね。 ‘長い物には巻かれろ’ か。処世術 (現実) 以外には何物もないですね。

 

 

 

.