小名木善行氏 4/4

 

 

>その日本人が、どこかの国の真似をして、アコギな道に進んだとしても、日本にはそのような歴史も伝統も有りませんから、アコギな道では、おそらく日本は世界に敵いません。 

 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)    

 

>そうではなく、日本と日本人は、個人であっても国であっても、どこまでも良心と誠意という善の道を進む。

 

日本人には意思がない。だから、責任もないのでしょう。  

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者になっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。だから、我が国民は存在感が薄い。日本人は、向上心・出世欲が旺盛であるから自己慶賀に陥りやすい。

 

>清らかであたたかかくて、明るい、それが日本書紀に書かれた「清陽(すみてあきらか)」です。 >そして男は、いくつになっても、そのような国柄を守る清潔で正義感あふれる日本男児であらねばなりません。 >それが「ますらをの道」です。

 

無哲学・能天気でないことを願いますね。  

日本人のような意思の無い人間には、加害者意識もない。強い罪の意識に苛まれることもない。ただ被害者意識だけがある。アニマルに似たような人間になる。ただ ‘過ちは繰り返しませぬから’ と言うだけでは、何が過ちであったかは分からない。心ここにあら視れども見えず。されば深刻な反省には至らない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) にも親しみがない。 

大人の身体をしていながら罪の意識のない人間を見るのが恨めしい。だから、日本人の社会は恨めしい社会になっている。そして、恨めしい顔をした化け物も出てきます。   

 

>お読みいただき、ありがとうございました。 >歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに  

 

ネガティブ・ポジティブの問題は難しいですね。

現実 VS 非現実 (あるべき姿) の比較では答えは常にネガティブになりますね。我々は人間は理想に追いつけないからです。ネガティブをポジティブに変える日頃の努力が自分自身の勉強の役に立ちますね。それが我々の人生というものでしょう。

現実 vs 現実の比較はネガティブであったりポジィティブであったりしますが、現実は常に変動するので考察の意義は少ないですね。一喜一憂することになります。人間の為すことは、兎角 ‘どんぐりの背比べ’ であることも多いですね。  

山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。

 

>小名木善行でした。

>※「ますらを」は、りっぱな男や勇気ある強い男を意味する大和言葉です。

 

 

.